平治之乱
平治之亂是指1159年,在保元之乱中,为后白河天皇立了大功的源氏家族首领源义朝,因为不满自己的封位比平氏家族首领平清盛低,乘平氏家族离开京城参拜神社之机,联合藤原信赖拘禁后白河上皇和二條天皇,甚至杀死了天皇的亲信。在外的平清盛闻讯,立刻赶回京城击败源义朝,最後源义朝在逃至尾张时被手下杀死。源氏一族只余下义朝的儿子赖朝流放伊豆,以及少数几名幼子寄放佛寺。经此一事,平氏彻底专揽了朝政。
平治之亂 | |||||||
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《平治物語繪卷》三條殿燒討(波士頓美術館所藏) | |||||||
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参战方 | |||||||
12月9日 信西 12月26日 二条親政派 2月20日 後白河上皇 藤原忠通、平清盛 |
12月9日 二條親政派、藤原信賴 12月26日 藤原信賴 2月20日 藤原惟方、藤原經宗(二条親政派) | ||||||
指挥官与领导者 | |||||||
12月9日 2月20日 平清盛郎党忠景、為長 |
12月9日
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兵力 | |||||||
12月9日 北面武士 不明 12月26日 天皇親政派3000騎以上 (平重盛1000騎、平賴盛1000騎、平經盛1000騎、六波羅残存軍 不明) (学習院本《平治物語》) 2月20日 惟方・經宗逮捕的武士 不明 |
12月9日 三條殿襲撃軍 500騎 (学習院本《平治物語》) 12月26日 藤原信賴軍 約800騎 (藤原信賴300騎、源義朝200騎弱、源光保300騎) (学習院本《平治物語》) 2月20日 藤原惟方・藤原經宗 0 | ||||||
伤亡与损失 | |||||||
信西自害 |
藤原信頼處刑・ 源義朝敗走後死亡、其他信賴的與力武將自害或処刑 藤原經宗、藤原惟方等配流 |
因为此变发生于二條天皇平治元年,故史称平治之乱。
参考文献
- 保立道久『平安王朝』岩波新書、1996年、ISBN 4004304695
- 網野善彦『日本社会の歴史(中)』岩波新書、1997年、ISBN 4004305012
- 河内祥輔『保元の乱・平治の乱』吉川弘文館、2002年、ISBN 4642077871
- 元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2004年。
- 古澤直人『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』吉川弘文館、2019年、ISBN 9784642029537
参见
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