武部六藏
生平
武部六藏是原加賀藩士、長崎县師範学校長教授、武部直松的四子,生于長崎。早年,武部六藏先后入東京府立四中、第一高等学校。1918年7月,自東京帝国大学法科大学法律学科(独法)获優等毕业,被授予銀時計。1916年10月,参加文官高等試验行政科試验合格。1918年7月,入内務省的東京府属兼内務属,隶属地方局府县課。
1919年10月,就任長崎县理事官、内務部農林課長。以後,历任福冈县学務課長,内務事務官,都市計画局、帝都復興院書記官,建築局庶務課長兼营繕課長、復興局建築部庶務課長、復興局長官官房計画課長、復興局長官官房文書課長、復興事務局文書課長、計画課長、庶務課長、兼内務書記官,内務大臣秘書官、内務書記官,大臣官房会計課長。
1932年6月,就任秋田县知事。1935年1月,转任关東局司政部長,后任该局总長。1939年1月,任企画院次長,后任该院总裁心得。1940年7月,就任满洲国国務院总务長官,任至1945年8月日本投降。
1945年9月,武部六藏遭西伯利亚抑留。1950年7月,作为战犯被中華人民共和国引渡,收容入撫順战犯管理所。因脑軟化症造成半身不遂,于1956年7月归国。
1958年1月19日,武部六藏逝世。
家庭
- 兄 武部欽一(文部官僚・教育者)
- 女婿 河村勝(铁道官僚・政治家)
参考文献
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
延伸阅读
- 田浦雅徳、古川隆久、武部健一編『武部六蔵日記』芙蓉書房出版、1999年。
- 武部健一編『武部六蔵昭和三年滞欧日記』武部健一、2006年。
- 古川隆久『あるエリート官僚の昭和秘史 - 「武部六蔵日記」を読む』芙蓉書房出版、2006年。
外部链接
大滿洲帝國 | ||
官衔 | ||
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國務院 | ||
前任: 無(上一相同頭銜: 星野直樹) |
總務廳總務長官 1940年7月24日-1945年8月19日 |
繼任: 職位廢止 |
大日本帝國 | ||
官衔 | ||
內閣 | ||
前任: 青木一男 |
企劃院總裁(代理) 1940年1月16日-1940年1月17日 |
繼任: 竹内可吉 |
前任: 無(上一相同頭銜: 青木一男) |
企劃院次長 1939年1月23日-1940年1月25日 |
繼任: 植村甲午郎 |
關東局 | ||
前任: 自己(代理)(正任: 大野綠一郎) |
總長 1936年4月15日-1938年3月28日 |
繼任: 大津敏男 |
前任: 大野綠一郎 |
總長(代理) 1936年4月7日-1936年4月15日 |
繼任: 自己 |
秋田縣廳 | ||
前任: 內田隆 |
知事 1932年6月28日-1935年1月15日 |
繼任: 兒玉政介 |
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