福留繁
福留繁(日语:/,1891年2月1日-1971年2月6日是一位日本帝國海軍將領,歷任長門號艦長、聯合艦隊參謀長、第二航空艦隊司令長官等職,最終軍階海軍中将。
福留繁 | |
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出生 | 日本 鳥取縣西伯郡所子村大字福尾(現大山町) |
逝世 | 日本東京(80歲) |
效命 | 日本帝国 |
军种 | 日本帝國海軍 |
服役年份 | 1912年–1945年 |
军衔 | 海軍中将 |
其他工作 | 防衛庁顧問 水交会理事長 |
年譜
- 1891年(明治24年)2月1日 - 鳥取縣西伯郡所子村大字福尾(現大山町)出生
- 1905年(明治38年) - 鳥取縣立米子中学校(現鳥取縣立米子東高等学校)入校
- 1909年(明治42年)9月11日 - 海軍兵学校入校
- 1912年(明治45年・大正1年)7月 - 海軍兵学校畢業(40期)
- 1924年12月1日 - 少佐、海軍大学校甲種24期入學
- 1926年(大正15年)11月25日 - 海軍大学校甲種畢業(24期,首席)
- 1929年 - 中佐
- 1930年(昭和5年)12月1日 - 人事局員
- 1932年(昭和7年)12月 - 前往欧美各国留学
- 1933年(昭和8年)11月15日 - 海軍大佐、連合艦隊首席参謀兼第一艦隊参謀
- 1934年(昭和9年)11月15日 - 軍令部第二課長
- 1935年10月30日 - 軍令部第一課長
- 1938年4月25日 - 中國方面艦隊兼第一艦隊参謀副長
- 1938年(昭和13年)12月15日 - 長門艦長
- 1939年(昭和14年)11月15日 - 海軍少将、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長
- 1941年(昭和16年)4月10日 - 軍令部第一部長
- 1942年(昭和17年)11月1日 - 海軍中将
- 1943年(昭和18年)5月23日 - 連合艦隊参謀長
- 1944年(昭和19年)3月31日 - 海軍乙事件
- 6月15日 - 第二航空艦隊司令長官
- 1945年(昭和20年)1月13日 - 第十三航空艦隊兼第一南遣艦隊司令長官司令長官
- 2月5日 - 第十方面艦隊司令長官兼任
- 1950年(昭和25年) - 復員
- 1955年(昭和30年)9月24日 - 擔任防衛廳顧問
- 1971年(昭和46年)2月6日 - 去世
著作
- 《海軍の反省》,日本出版協同(1951年)
- 《史観・真珠湾攻撃》,自由アジア社(1955年)
- 《海軍生活四十年》,時事通信社(1971年)
參考資料
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